崩壊するタワーを観たことで、僕のこれからが決まった。
2001年、同時多発テロにより崩壊するワールド・トレード・センターの映像を観て、僕は「これから成すべき」ヴィジョンを視ていました。
それが今の僕を創っているひとつとも言えます。
演出家・篠原有利は舞台や映像だけでなく、近年は「人」を演出する活動に比重を置いて活動しています。それは「理想」というそれぞれが心の中に持っている「脚本」を深く理解して、現実の世界に最高の形で表現するリアルワールドの演出家。
何故、そんな演出家が誕生したのか?
Origin
- 子供の頃から映画をよく観ていました。
近所にいくつも映画館があり、字幕も読めないような頃から洋画を観て育ちました。
母は夜の仕事をしていたので、留守番をしてテレビの洋画劇場をオールジャンル見ている子供でした。今にして思うと、小学4年生にイングマール・ベルイマンの『ある結婚の風景』は早すぎたと思います。もちろん意味は理解していませんでした。
「自分」の商品化を知る
学校を卒業してホテルマンとして生活していても、映画の世界で仕事をしたいと思うのは
とても自然で、21歳で俳優への道を選ぶ。
- 「成功なんて出来るわけがない」と言わない人はいないと言うくらいに否定されました。それはそうです。僕は特に個性的な顔をしていません。周りはカッコいい人が多いです。ただ、それがチャンスだと思いました。
当時から演出家の視点を考えていましたので、顔のいい人ばかりが「我こそは」と前に出ている中で、全体のバランスを考えて自分の立ち位置を固めていきました。
会社でもそうですが「上は分かってない」なんてグチを言う前に経営者の視点を通せばどうするのがいいのか分かります。当時からそれに注目していましたので、生活に困らない程度には暮らしていけました。
大きな挫折を経験する
- 調子に乗っていました。その慢心がトラブルを呼びました。
初プロデュースする映画がクランクインの直前に頓挫。その全ての責任を取らされて会社を追われ、その方には多くの負債を背負う事になりました。
同じころに車が壊れてしまいます。
そして悪いことに育ててくれた伯母に癌が見つかり、八方ふさがりの状態でした。
早朝からカフェでバイトをして、昼には営業の仕事。深夜にはホストをして返済していく日々。ただ何も考えない「仕事マシーン」になって日々を過ごしていくしかなかった。
再起と再びの挫折
- そうした日々で、すっかり気持ちが腐っていて。さすがにこのままではいけないと思って借金はまだまだありましたが、先が見えてきたこともあって海外に出てやり直そうと思っていました。かねてから憧れていたニューヨークに移る準備を進めていたのが2001年。
9月11日の同時多発テロのニュース映像をみながら、とても現実のものとは思えなくて。新作ディザスター・ムービーかと思っていました。しかし、それは虚構なんかではなく、その崩れるタワーの下で多くの人が亡くなっていることを知り、その中には今回の移住を手伝ってくれた知人もいて、ショックで言葉もありませんでした。
思想の違い、民族の違いで起こる争いで、このような犠牲が出なくてはならないのかと怒りや失望感を味わい、また「映画みたい」なことが現実としてどんな映画よりも覆いかぶさっている事実に、僕は「現実を演出しなくてはいけない」と考えるようになりました。
死を意識して、行動をする。
- そう決意したからといって、即座に行動できなかったのが現実です。よくある自己啓発の本でも、成功哲学でも「行動せよ」と書いてあります。だけど「そうは言っても」と言うものがある。僕は「そうはいっても」という言葉を僕自身がそうであったことを忘れないので否定しません。
そんな僕が動くきっかけになったのは交通事故で命拾いをしたことです。
深夜のバイト帰り、信号で居眠り運転の大型トラックに追突される。
- その事故では僕の車の後ろに停まっていた軽自動車の方が亡くなりました。僕は3カ月の重傷。亡くなった方と僕の差はほんの僅かなタイミングでしか無かったです。
僕が後ろに停まっていたら僕が死んでいたと思います。
その出来事が僕の死生観を変えて、今すぐ行動しなくては悔やむと感じたきっかけになりました。
演出家として劇団を運営、商業的にも成功していた時期に
「本当の使命」を知る。
- 事故で生き残ったときに「使命」について考えることになりました。3カ月も動けない訳ですからずっと自分の内面と語り合う時間はあります。
そこで、いろいろと考えました。
その中のひとつが実母の事です。実母は僕が10歳になってすぐに自ら命を絶ちました。
そこに至るまでには、とても多くの悩み苦しみがあったと思います。ちょうど事故の時が実母が亡くなった歳でしたので、それは「絶対にどんな声も聞き漏らさない」という想いでした。
こんなにSNSが世界中に広がってもネガティブな言葉には誰もが蓋をしたがります。
前向きな言葉、ポジティブな言葉には「いいね!」をして気持ちよくなって、さて次・・となります。去った後には誰からも聴いてもらえなかった悲しい言葉があったりします。
それをキチンと拾いたかったです。
ネガティブなことを娯楽として捉えている人も多いです。
「あー、この人(私より)可哀そう」って自分はまだマシだと安心したくなって。
その気持ちも否定派しません。生きるためには必要な事だったりします。
舞台の上で多くの人間関係を創ってきたわけですから、バランスの作り方に関しては自信があります。もちろん自分の立ち位置も承知しています。
なのでポジティブに言葉を創って喜ばれる人がいる一方で、僕は声にならないようなネガティブな想いに寄り添っていこうと思いました。
僕自身は人間関係が得意とは言い難いです。だからこそ「どうすることで変えられるか?」について詳しくもあります。天才には無い苦労人の知識です。
笑顔に隠していた自殺願望
- 生きていれば・・・多くの人が「命を終わらせたい衝動」に駆られることはあると思います。僕にもあります。ただ、僕は実母をそうした形で亡くしましたし、友人も逝きました。
目の前で鉄道自殺を目撃したこともあります。
「死んではいけない」とか「生きていればいいことがある」なんてわかっているんです。
ただ、どうしようもない気持ちなんです。そうしなくてはいけない、みたいな。
その気持ちはいってみればその人のアイデンティティのひとつです。それを否定するのは、その人自身を否定するようなものです。だから僕は言葉を大切にひとつひとつ拾っていきます。ひたすら聴きます。
熱い名言も、強いメッセージもありません。一緒にいるだけです。
僕は相手を肯定することから始めます。自分の考えを押し付けることはしません。
そうした「自分の考えの押し付け」がタワーの崩壊に繋がったと思っています。
そうした活動から『静寂に耳を澄ますということ』が始まります。
- 悩みました。Podcastをすることで「苦しくなったら僕を呼んでください」という気持ちがありましたが、相手の声を聴くためには僕自身がちゃんと腹を割らないといけないと思ってとても赤裸々に僕自身の事も語っています。
これにはとても迷いがありました。やっぱり恥ずかしいし、50過ぎのおじさんのことなんて誰も聴かないと思いました。
でも、同じ悩みを持っている人がとても多いことに、背中を押されました。
いくつになっても悩みはある。年齢を重ねたからこそ悩んでいるし、それを誰にも打ち明けられないし。ならば僕からちゃんと話していかないとって思いました。
幸いなことに想いが通じて、聴いてくださった方から連絡が来るようになりました。
これからシリーズは本格的に始まります。より多くの方に聴いていただいて「あなたの味方がいますので呼んでください」と言い続けたいと思います。
メジャーに行かなかった訳。
- 俳優をしていた頃のコネなどを伝っていく方法も考えなかった訳ではありません。当時仲間はその多くがメジャーなテレビや映画の世界で活躍しています。ただ、そこに僕のやりたいことが無かったというだけです。
またこんなことがありました。それなりに知名度のある作品に出演している友人に連絡を取りたいと所属事務所宛てに手紙を書いていた知人がいて、当人に連絡があったのは知人の死後1年が過ぎてからでした。事務所的には不審なことや「負」の方向の事は当人には隠したいものです。でも、そこにとても大切なことがあるのです。
僕はそうしたことを大切にしたいと。僕が助けたい人は煌びやかな世界にはいないと思って、そっちに行くことをしませんでした。
今では、自分の創りたい作品を自由にフットワーク軽く創ることができるので、そういった意味でもその決断は正しかったと思います。自由でなくては創れなかった作品がとても多いので。
篠原有利の動き方。
― 何故、僕のような中年に相談してくれるのだろう?と思う事はあります。
僕に相談するという事は何だろうと。
僕はとてもレスポンスが早いです。「今悩んでいることに今応える」このスピードは大事だと思います。例えば昼に悩んでいて、夜まで待てば家族に話せるかもしれないけど家族が返ってくる前にスッキリ出来たらそれに越したことはありません。
「止まない雨は無い」と誰もが言いますが、いま降っている雨に耐えられない事もあります。なので僕はすぐに返事をします。
車を運転している時は赤信号のタイミングや、途中停車してでも返信します。
それと、絶対に相手を認めるということです。
「こんなことで悩んでいるなんて」と言う人もいますが、僕のような何でもない中年男に相談するほど追い詰められているのです。精一杯の誠意で向き合いますし、世界で一番の味方でいることを心がけています。
篠原有利(ゆーりママ)
演出家
クリエイティブプロデューサー
寫眞作家
1971年福岡県生まれ。
1989年のバブル期真っただ中に高級ホテルの社員として数々のセレブをもてなしつつ最前線でビジネスを学び、俳優として舞台や映画に出演。
アルバイトとしてクラブに入り、後にマネージャーとして経営を身に着ける。
俳優としても独自の自己プロデュースで売れっ子となり、98年に念願の演出家デビュー。BSのドラマやVシネマ、舞台作品に多数関わる。
2000年に独立し、『Seed Project』を設立するも試行錯誤の日々を送る。
2006年に町民劇団の公演『春姫』のヒットより実力派演出家として知られるようになり、その圧倒的な客観性をもった「演出術」は企業からの人気も高く、ブランディングや企業理念、ヴィジョン構築の強い味方となる。
その頃より事務所名を『Office ELAN』と改め、ブランディングアーキテクト、コンサルティング事業を始める。
PR事業など多くの実績をつくるも、自身は裏方に徹するという信念のもと多くの実績を非公開に。
またSNSを活用して個人からの相談も多く、婚活や自己ブランディング、フリーランスのビジネスを成功させるためのノウハウを惜しみなく提供することから「成功の賢者」と呼ばれるようになり、シングルマザーの家庭で貧困の中で育ったために女性起業家や母子家庭の経済対策など面倒見のよさから【ゆーりママ】と親しまれている。
また寫眞作家としての側面もあり、郷愁を誘う風景写真は人気を呼び、プロフィール写真の依頼も多い。ちなみに「遺影」の撮影依頼も多いが、依頼人が全員健在の為に使用されたことは無い。
ユーモアに満ちた語り口と絶対的な熱量でトークライブはいつも人気が高く、またPodcastでは一転して穏やかな癒しvoiceにファンが多い。
「生活の基準は猫」というほどの愛猫家で、飼い猫の『ムギ』との生活をなにより優先することがある。
そのスキル、ノウハウを発信することで公平な世界を構築する
【BUILD A FAIRWORLD】をヴィジョンとして掲げ、
誰もが平等で環境に左右されない生き方ができることを目指して行動中。
Podcast
Studio ELAN制作のPodcast
FMラジオの構成・演出からパーソナリティまで努めてきた演出家 篠原有利の手によるPodcastの数々。
現在もっとも勢いのあるメディア『Podcast』はラジオの様に聴くことでダイレクトに心に沁み込んでいくため、想いやヴィジョンが伝わりやすいものになります。
Studio ELANの制作・プロデュースするPodcastは演出力により臨場感・没入感には自信があります。
会社のこと、お店のことなど、是非創ってみませんか?